家族デーゲーム

親孝行の正体を探っていくブログです。

親孝行とは間接的にするもの

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2歳の子ども。先々月は目に映るすべてをパパと呼び、先月は目に映るすべてをママと呼び、今月はパパのことをママ、ママのことをパパと呼ぶカオスな状態に陥っている。とにかく巡り巡って、来月には晴れてパパとママが一致する瞬間が訪れるのではなかろうかと微かな期待を寄せている。

 

最近ようやくどこへ行っても、「ママに似ている」と統一した意見が聞かれるようになった。それは良かった。自分のようなゴリラみたいな顔を受け継いだなら、可哀想すぎて適切ななぐさめ言葉も見当たらない。往年の中島みゆきよろしく、「うらみ~ます」などと言われたらどうしていいか分からない。それにしても、「どちらに似てる」という会話は我々が手に入れた最高の社交辞令ではなかろうか。

 

子どもの成長に伴い、自分の中に訪れた心境の変化を書き綴っている。当初自分の考えていた親子論的なものとは正反対に向かっているが、その方向性はきっと間違っておらず、その軌道修正が今の快適な生活にうまく繋がっていると思う。

 

目の前でウロチョロする我が子に昔の自分の姿を重ね合わせることには大きな意味がある。そうすることで、当然のように自分の親へと考えが至る。19○○年の時代性において自分の親はどのよう気持ちで我々を見守り育てていたのだろう。我が子から教わった一番の名言は、「親孝行とは間接的にするもの」でまず間違いない。

 

この記事を書いているあいだにも子どもの横槍が10回ほど入る。短時間でいかに集中して文章を書くか。そこにフォーカスしないとこの活動は成立しない。たった2行書くのに30分掛かってしまうことも珍しくない。

 

子どもができると時間がなくなるというのは、半分本当で半分嘘。時間はある。ただ、それが連続したものではないから、一日を振り返ったときに何も進んでないような気がするだけの話。子育ては大変とよく聞く。乳幼児のうちは時間的に大変。児童になると金銭的にも大変。それが重なると精神的に荒れ、その空気を感じた子どもが本能的にか余計手を煩わせる。そんな悪循環で疲弊する。概ねそんなとこだろう。

 

子どもに対し、今が一番可愛いと毎日思っている。最近は一丁前にいびきをかいて見せるが、それすらも愛おしくてたまらない。時期的にこれから窓を開け自然の風を入れながら眠る日が増えてくるだろう。鉄板のBGMは鈴虫の鳴き声と我が子のいびきによるハーモニーで決まりだ。 

 

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