子どもが子どもらしくあれたギリギリの世代
作家の阿久悠が本に記している。「何歳の時に、どの時代と、どのようにぶつかったかによって、一人ひとりの価値観や生き方が大きく変わってくる」。彼は8歳のときに終戦を迎えたらしく、そのことには特別な意味があると言っている。
自分に置き換えてみる。1978年という時代性に生まれたことが、今の自分の感性に大きく影響している。この場で親孝行などをテーマに扱おうとしたのも、あの時代性に生まれた自分だからこそ記せることがきっとある。そう思ってのこと。
ずいぶん前から、同世代の人たちと接しながら何となく感じていたことがある。それは我々が、子どもが子どもらしくあれたギリギリの世代だったのかもしれない、ということだ。別の言いかたをすれば、幼い頃から変化球の投げ方を覚える必要のなかった世代が我々、ということになる。
情報を例にとる。当時の情報伝達手段といえば、対面か電話。あと多少時間の要すもので手紙くらいだった。そこには「直接」というものを迫られた。現代はどうだろう。インターネットを介したアレコレ。どこの誰が発したか定まらないものが無数に飛び交い、それらが報告や連絡を兼ねたりする。自分たちがそれらと接したのは大人の階段を昇ったあとくらいだったから良かったが、現代の子どもたちはそれらが幼少の頃からあたりまえに付いてくる。
飛んでくる球がストレートでそれをただ打ち返せばよかった子どもらと、飛んでくる球の多くが変化球でそれを打ち返すために策を練る子どもら。純粋に生きやすく泳ぎやすいのはどちらかと言われれば前者だろう。
とは言いつつ、実はどの時代に生きる人たちも自分たちより下の世代を見ながら、「俺たちの方が生きやすい時代だった」などと少なからず思うのだろうから、結局のところ「お互いさま」なのかもしれない。