未来ある人たちを生かそう
「楢山節考」という映画がある。簡単にいうと、役に立たない老人を山に捨てるという話。親孝行について考えるブログにしてはかなり挑発的なテーマ。
でもたとえば、自分の家族が食糧難だったとして。何とかみんなで力を合わせて生きていこうとするか、それとも誰かに犠牲になってもらい少しでも食料の確保に努めようとするか。一度は考えてみてもいいのでは。
老人は先が短い。どうしようもない状況になったら、未来ある人たちのために自分が犠牲になるというのはごくあたりまえのことだと個人的には思う。時間は平等。かつてその老人たちにも好きなことをしたり夢を追っかけたりした未来ある時間があったはず。後輩が困っているのに、自分たちにもまだまだ楽しませろというのは傲慢ではないか。
悪いけど、あなたたちの時代はとっくに終わっている。こんなことを書くと、お前は敬老していないと批判されるだろう。でもそういうことが言いたいのではない。生命単体は尊いもの。自分にも子どもがいる。生まれてきたあの瞬間を振り返ると、生命とはなんと尊いのだろうと思うに決まっている。でも、生かし続けることで全体にとってマイナスになる命というのもこの世の中には存在する。そういうことを大人になる過程で知ってきた。
先代から続く慣習や思想があるのは理解する。ただそのせいで未来を生きようとする人たちが不自由になっているのだとしたら、それは継続する意味が本当にあるのか。土地、家、墓。友人の家庭はそれらに固着するばあちゃんに苦しめられた。ばあちゃんは先が短い。そんな人間が納得のいく形を選ぶことが、本当により良い落としどころなのか。親子の関係は尊い。でもそれは絶対的なものではないと考えている。