生きてきた時間の確認
この場を通じて自分がやっていること。それは親孝行や家族の在り方を探る事ともう一つ。生きてきた時間の確認である。
なぜ記事を書き続けるのか。今まできちんとした説明ができなかったけれど、ようやく分かってきた気がする。自分はただ、生きてきた時間の確認がしたくて、それを文章によって可視化しようとしているだけなのだ。
「生きてきた時間の確認」
あまり聞きなれない言葉。でもこれは多くの人が望んでいる普遍的なものだと考える。これに関連することで、写真の話を挙げる。人はなぜ写真を撮るのだろう。それはきっと楽しかった瞬間をそこに閉じ込め、こんな頃もあったよねと後で振り返るため。今まで当然のようにやってきたそんなことも、結局は生きてきた時間の確認作業だった。そしてそんな時間こそが、自分にとっては何より楽しいという事実に気付いてしまったのである。
過去に執着している。人によってはそんな見方をするかもしれない。たしかに自分の中にもそういう思いがあったからあまり公に言ってこなかったのかも知れない。でも同時に、過去に執着しているのとは違う種類のナニかなんだよな、という気持も確かにあった。その悶々とした状態を解消してくれたのが、この「生きてきた時間の確認」という言葉だった。
昔を懐かしむだけ、というのは好まない。なぜなら我々は現在を生き、そして未来を生きていくから。過去を振り返ることは大切だけどそこに居続けるのは建設的ではない。とはいえ、現在や未来という戦場へ丸腰で向かうのは不安だから、過去という後方部隊に援護射撃をしてもらう。そんなイメージ。そして、どうせ援護してもらうのなら小銃ではなく大砲であった方が心強いから、こと細かく記していく。たぶんそういうこと。
実は、日々の記事は主に同年代に向けて書かれている。同じ時代に少年少女であった人たちに対し、やはり俺は親近感を持っている。そのことに気付けたのも、この生きてきた時間の確認のおかげだ。これからも、現在そして未来を生き抜くための可視化作業は続く。最後に、最近特に好きなフレーズを贈って締めたいと思う。「俺たちはただ、好きな時に好きな人と好きな話をしたいだけ」。