家族デーゲーム

親孝行の正体を探っていくブログです。

写真が一枚もない間柄

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大切な友人と再会した。居酒屋の個室に通された。会話の中心は先日亡くなった友人のお父さんのことだった。

 

死の数日前に新しいホスピスができ、入所者第一号、一番風呂、そして死亡者第一号として逝った。最後まで高い役職を持つことのなかった普通のサラリーマン。分かりやすい形のすごさはなかった。でも誇らしかった。

 

友人は斉藤和義の「月光」という曲の話をはじめた。男の価値は何で決まるか?という歌詞があり、「家族だ」と歌っているらしい。闘病中の父親を見ながら友人はその歌詞にとても納得がいったと言っていた。入所中何度も、介護士をしている娘さんに風呂に入れてもらっていたと聞く。もし自分がその立場ならこれ以上の幸せはないと思ったろう。そのくだりを話しながら、お互い少し涙声になった。熱燗を呑みすぎたせいかもしれなかった。

 

個室の横開きのドアは閉める勢いによって跳ね返りを起こした。複数の店員が代わる代わる対応した。跳ね返りが起きないようにきちんと閉めてくれたのは1人のおばちゃんだけだった。あとの店員が少しだけ開けていく威勢のよいドアを友人と自分で何度も閉めた。12月のすきま風はほんのり冷たかった。

 

友人は飲食店に勤めている。先代のオーナーに言われたようだ。「人はなぜウチの店にご飯を食べに来ると思うか」。オーナー曰く、自分が何もしなくて良いからとの事だった。何もしないで皿が出てくる、何もしないで食べ物が出てくる、何もしないで皿が引かれる。

 

美味しいからとか店員の知人だからとか理由はいろいろあるが、でも究極は自分で何もしなくて良いからわざわざ食べに来るのだということらしかった。何もしなくてよいはずの客に扉を何度も閉めさせているこの店はダメなんだよ。友人はそう言ってまた熱燗を呑んだ。

 

自分の場合、どんな種類の店に行っても接客のクオリティは求めていない。それがプロの証だ、と言われたところで正直どうでも良かったりする。俺は客だ!と見るからに威張っているおっさんをたまに見掛ける。正直意味不明だ。自分は良い接客をしてもらえるような人間だとでも思っているのだろうか。人生の怒りの大半は期待に対する見返りの落差によるもの。最初から期待などしなければ怒る理由は激減する。

 

会うときは必ず1:1。連絡は年に1回あるかないか。「これだけ付き合いが長いのに写真が一枚もないですね」。友人に振ってみた。答えはこうだった。「そういうのはない方がいい」。お互い友達が少なく、大人数で頻繁にワイワイやってる人間を見ると違和感を覚える。この間柄には特別なものがある。であるならば、写真なんてなくてもいいじゃないか。友人の前向きな提案を俺は快く受け入れた。

 

友人はボブディランの大ファン。どこがいいのかと訊いたが、うまく答えられないと言っていた。本当のファンとはそんなものなのかもしれないな。最近たまたまボブディランの「ハリケーン」という曲を知る機会があった。何を言ってるのか分からないおっさんだなと長年思ってきたが、ハリケーンはとてもいい曲に感じた。これも時間の流れだろうか。

 

帰りしな、踏切のあたりで別れることにした。最後、線路の向こうから友人が何か言っていたが、電車の通る音でよく聞こえなかった。俺は聞こえたフリをして軽く首を振ってみせた。何を言ったかはどうでもよかった。今日の楽しかった時間を拠り所にこれからまた進んでいくだけの話だから。

 

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