たびたびお世話になります
大人が電話口で発する第一声、輝く第1位は「お世話になります」で間違い。いつも何気なく使ってきたこのお世話になります。ただ、最近アレコレ考えているうち、お世話になってるどころの騒ぎじゃねえな、ということに行き着いてしまった。
ご近所付き合いもそう、仕事の付き合いもそう。一見関係のなさそうな他人に対してもそう。我々は互いにとてもお世話になっているのである。
例えば、街中を賑わせるイルミネーション。とてもドラマティックなあれは一体誰のおかげなのか。そう、施工会社だ。・・・じゃなくて、それを可能とする資金はどこから出ているのか。そう。多くの場合、我々の税金に違いない。
あなたが、またはあなたの子どもが、「わあ、きれ~い。この光景一生忘れない」と言って素敵な思い出としたならば、それはおもいきり他人の世話になったということになる。逆に言えば、そのへんにいる誰かさんもあなたの納めた1円により素敵な思い出を作っているとも言える。このように我々は世話をし、また世話をされる「お互いさま」の関係なのである。
他の例として、成り金社長についても考える。創業期というのは金に苦心する。そこで成り金社長は創業者向けの助成金を申請することにした。助成金が出るとは一体おかげなのか。そう、自治体のおかげだ。・・・じゃなくて、これまた資金の源は我々の税金に違いない。
数年後、事業に成功した彼は、結果としてバスローブにシャム猫、そしてワイングラスを片手に解禁直後のボジョレーといったベタな成り金ファッションに身を包むかもしれない。ただ事実としては、自分と直接関係のない市民の皆さんお世話になったことで成し得たものだ。
「あのとき、あなたの1円が私を助けてくれたんです」。本当ならばそう言ってバスローブを脱ぎ捨て、抱えてるシャム猫を市民一人一人に撫でさせるくらいのことはすべきであろう。それくらいやっても、恩の返し過ぎにはならない。
とにかく我々はどこまでいっても「お互いさま」の中で生きている。今後、誰か人を助けたとして、もし名前を聞かれることがあったらこう答えてみてはどうだろう。「名乗るほどの者じゃあござんせん。以前あなたにお世話になったかもしれぬ、ただの通りすがりですぁ」。