亡くなった人の分まで生きるという偽善
先日同級生が亡くなった。早生まれでなければ38歳だった。自分にとって彼の最後の言葉は、昨年末にやり取りしたメール。「会う機会はなかなかないけど来年もヨロシク」であった。
通夜のあと、地元の友人から綺麗な顔で死んでいたことや和やかな通夜だったことの報告があった。何かの病気であったらしいが、昨年末の<来年もヨロシク>の時点で、彼は自分の死期を悟っていたのだろうか。それについて家族とは話をしたのだろうか。そんなことをアレコレ考えるうち、亡くなった彼との不思議な出来事を思い出した。
いつだったか平日の昼間、2年振りくらいに彼から電話があった。何事だろうと思った。話の内容は地元の別の同級生が死んだらしいが何か詳しいことを聞いていないか?というものだった。その同級生が死んだことは知らなかったが、その前になんで電話する相手が自分なのだろう。地元に住んでる同級生のことは地元の人間に訊けば早いのに、なぜ遠くの俺にわざわざ連絡を寄越してくるんだ。とても不思議な感じだった。
結果として、こちらは大した情報を提供をできなかったわけだけど、実はあの時から彼の病気は進行していて、まわりの人間の生き死に対し敏感になっていたとしたら。そんなことを考えたりした。その電話の最後、「またみんなで集まることがあったら連絡たのみます」。そう言って彼は電話を切った気がする。
人の命とはなんだろう。世間でいう平均寿命というものに全くかすりもしなかった人に対し、我々は<早過ぎる死>という言葉を使う。「早過ぎる死を迎えた人の分まで私達は一生懸命生きなければならない」。そのようなことを声高らかに叫ぶ人をたまに見掛けるが、あれにはちょっとした違和感を覚える。
あんたは選ばれた人間なのかよ。そのセリフを言って一体誰が喜ぶんだ。死んだ人はきっと、「もっと生きたかった」と思うだけで、ありがとうとは思わない。人道的には間違っていない言葉でも軽々しく言っちゃいけない言葉というのがあるんじゃないか。死んだ人の分まで一生懸命生きるというのは聞こえはいいが、ただそれは、「自分においては明日も生きている」という前提に立った物言いにならないか。再度、あんたは選ばれた人間なのかよ。
今回の友人の死によっていろんなことを考えさせられた。友人にはすごく礼を言いたい気分だ。もう会うことはできないけれど、昨年末の<来年もよろしく>メールに対する返信はもちろんこうだ。「ああ。こちらこそ、これからもよろしく」。