テレホンカードの寿命のように
対話は大事だ。以前の帰省でそれを強く思った。
両親。未だ安定のしないこの二男坊をいつも温かく見守り支えてくれている。母親の兄ちゃん。ちょっとワケあり。人のことを悪く言うわりに最後は丁寧に謝り再会を必ず約束する。幼なじみ。彼と話していると相手にちゃんと向き合っているのだなといつも感心する。
対話というのは人間が2人さえ揃えばできるはずなのに、なかなかその場を持とうとしない。なぜだろう。明日も必ず生きているし、これからもずっと生きているはずと無意識的に思っているのか。人生あと40年あると考えるのは平均寿命というものが存在するから。ただ、その40年というのは運が良ければの話であって確かなものではない。
人生の残り時間の話になったとき、テレホンカードに似せて「度数」という言葉をよく使う。行動をあとに回せば回すほど、間に合い度数は減っていく。まず、自分自身の寿命に対する間に合い度数。そして、行動したその姿を両親に見せたいと願うなら、両親の寿命に対する間に合い度数も考えなければならない。
さらにその姿を祖父母にも見せたいと願うなら、祖父母の寿命に対する間に合い度数も考えなければならなくなる。つまり他人を巻き込むほど、間に合い度数の減りは確実に加速する。行動しないのは悪とかできない自分はダメな人間なんですとか、そういうことを言っている段ではないのである。
大役を果たし、ゼロ度数の箇所に穴を開けたテレホンカードのように、清々しく寿命を全うして散っていきたい。そうして、心の余裕を持ち来世に旅立てたらこれ幸いである。